life-review

毎日の振り返り日記。よかった事、改善することの記録

子供の教育を考えるということ

 

1. 背景

子供の教育を考えると自ずと自らの資金計画のことに気が及ぶ。

 

お金の使い所はたくさんある。

教育費以外に、医療費は落とせない。

車の維持費もかかってくる。必然的にかかってきてしまうものは住居費もある。

車は好きで持っているからいいけど、住居費はいただけない。

住む場所や家にこだわりがない以上はお金をかけたくないのだけれど、子供の教育機会を考えると、住む場所もある程度は選びたい。

そうすると考える順番としては、まずは教育をどうしたいのか、その上で必要な経費はどの程度かかるのか逆算的に考える必要がある。

 

2. 教育とはなにか

例えば文部科学省に掲載されている教育の目的というのは下記のようなものだ。

第1条(教育の目的) 教育は、人格の完成をめざし、平和的な国家及び社会の形成者として、真理と正義を愛し、個人の価値をたつとび、勤労と責任を重んじ、自主的精神に充ちた心身ともに健康な国民の育成を期して行われなければならない。

第1条 (教育の目的):文部科学省

他の国、例えばUKのShools Minister Nick Gibbのスピーチを引用すると以下のように書いてる。

Education is the engine of our economy, it is the foundation of our culture, and it’s an essential preparation for adult life. Delivering on our commitment to social justice requires us to place these 3 objectives at the heart of our education system.

The purpose of education - GOV.UK

どちらの記述もなるほど、異論はない全うなものである。

いずれの記述においても重要だと思ったのは、「自主的精神」「Preparation for adult」という部分。自主自立した精神を持った大人というのはどういうものなのだろうか。

ここからは自分の考える自主自立した大人というものを考えてみたい。

自立して考えるとは、「自分で判断する材料を集め、時に必要な人に頼りながら自分で実行すること・しないことの判断を行えること」であろう。

基本的には人間は意図せずして、喋っていることが誤っていることは多いし、結果的に嘘になっていることも少なくない。要するに、この人の言っていること本当か?というが多い。

自立して考えることの目的の一つは、騙されないことだろう。

考えて実行することの先にあるべきなのは、新規性・進歩性を生み出せるようになることもある。なにも大発明をするべきという話をしているのではなく、何かを設計し、作り出せるということを身につけていると自分でできることの自信にもなってくる。意思を実現する力と生産力を身につけるのは、社会的なポジションのためではなく、自分の人生の幅を広げるためである。仕事を与えられるものではなく、時には必要なものを作り出すそんな感性と実行力を身につけたい。

成長していく社会において、自分自身の信念を持って生きていけるそんな風になりたいものである。

 

上記の点を踏まえると、具体的には下記の機会がある方が望ましい。

  1. 文化・背景が異なる人であっても相手の意図・主張を理解し、議論する機会
  2. 自分自身の意思を実現するための技術習得と発表をする機会
  3. 自分自身の意思を実現するための計画を立案・実行する機会

1. を行うことは複合的な要素が必要だ。相手の主張をきちんと咀嚼して自分の主張を十分に伝えるには、現実に起きている現象を把握し、原因を理解し、対策を考える機会がないといけない。現象・原因・対策というと工場の品質保証っぽいが、本質は同じ。

原因を考えるというのも論拠と根拠をそれぞれ検証して反論するための力が必要になる。

2.は注意しないといけないのは、何かのツールの使い方を習得するというものではない。Pythonの文法覚えて、画面で動くもの作れましたというのも大切な経験だけれども、それは演習としての一つに過ぎない。2. で重要なことは、人文領域も含む広い意味での科学の原理・原則を理解し考え、検証もしくは作成するということだ。きちんとやるとすると、座学をきっちりやる必要があって、事前に予習して理解をしておき、授業では討議の形式でより深い理解を行う。その後にレポートをきっちりと自分で書いて演習するということが2.で実行するべきことになる。

3.はテーマを設定し計画すること、それを誰かにレビューしてもらうこと、必要な人を巻き込むこと、自分自身で実行することという思考力とコミュニケーションが必要になるものだ。例えば、理科的なテーマであればてんとう虫の模様のパターンを分析して地域差があるのかに答えを出すなんていう取り組みも当てはまるだろう。これはある意味1.と2.の複合演習みたいなものなので、取り組みの機会としては、1.と2.をきちんとやりながら徐々に3.の割合を増やしていくという感じがよい。

上記の1, 2, 3を満たすところは、少なくとも自分が卒業した大学・大学院はそんな感じだった。1〜3のことをやるにしても、自分よりも出来るし時に教え合う事もできて、自分自身の考え方や思考力も引き上げられたと思う。

教育の場所を考える上で重要なことは、1〜3を実行する上で、相互に高めあえる人がおり、メンターとなるべき人がいる場所がよい。

3. より具体的な教育の要件を考えるとどうなるか 

 具体的に教育の段階で得たい機会をより具体的に記述したいみたい。

保育園・幼稚園

五感を研ぎ澄まして開放できる機会があることに尽きる。

自然界に存在する現象は観察すると面白い事ばかりで、感性の鋭い時期にたくさんそういうものに触れてさせたい。

動植物を観察すること、川の流れ雲の流れを見る事、野菜を手掴みしてみること。

体を動かして自分の身体感覚を掴むということもあるとよい。

パズルをしたりブロック遊びをして、立体感覚を養うこともよい。

遊びを通じて五感を研ぎ澄まし体験することが必要だ。

フラッシュカードをやるとか、目隠しでピアノを弾けるようになるとか、逆立ち歩きができるようになるとか、そういう子供ありきではなくプログラムありきのところはダメだ。五感を研ぎ澄ますということは、子供ごとに個別の特徴があって個別化してその特徴を伸ばしていく必要がある。

そうすると保育園・幼稚園の先生の役割とはなんだろう。一つは、五感を研ぎ澄まして刺激する遊びを豊富に知っていてそれを安全にかつ見ている子供ごとに個別に対応することができるということなのだと思う。同じ折り紙遊びをするにしても、遊び方は千差万別だ。

小学校以降

小学校も引き続き五感を刺激する体験が必要であることには変わりない。

加えて、原理・原則を理解して答えを出すということの体験が必要になる。

原理・原則をきちんと授業でレクチャーして演習、指導の機会があること。それを元にしたディスカッションがある事ということになる。理想をいえば、指導する人もその道の内容・指導方法に専門性がある人がよい。

レクチャーもディスカッションも好奇心と向上心を持ってできるメンバーや指導者によって実施されるべきである。とりあえず、ディスカッションの形式だけでやっているけど、実施する側も受ける側もよく分からないけど、カリキュラムだからやっていますというものではな何にもならない。

自分自身が県立高校に通っていた時に実施されていた総合学習なるものがまさに形骸化した自主研究の時間だった。時間の無駄という他ない。

時間を有効に使うという意味においては、小学校のカリキュラムを効率的に終えていくということも要件になるだろう。

入試がある中学校を目指す場合には、それなりに準備の時間が必要になる。

準備というのは受験勉強というのもあるが、それ以外に語学や自主的な活動を行うという実績を残す時間も必要になる。 

  

そもそもの疑問だが、小学校と中学高校というのは意識として何か変わるものがあるかというと実はそれほどなくて、小学生の段階ですでに自立した意識があるのではないかと思う。これは自分自身がそうであって、他の人も同様であることの証左はないが、扱いとして、一人の自立した人間としての対応が相互の対応が求められる、そんな場所がよいのではないかと思う。自主自律というのは管理-被管理の関係性からは生まれないものである。自分の場合は、日本でも有数のマンモス学校法人(日本の至るところにキャンパスがある)のとある関東地方の私立中学に通っていたことがあるのだが、教員と生徒の関係は、管理-被管理の関係であった。何かにつけても教員の立場を利用して理不尽な対応・暴力というのは日常茶飯事にあった。他の生徒がそのように扱われているのを見てもなんて侮辱的で浅はかで子供じみているのだろうかと思ったものである。教育する立場としての指導の方法、対話の方法というものを知らないのだろうと思った。彼らの知っているのは、理論や愛情ではなく、単なる感情なのであると13歳ながらに痛感したものである。授業中もいきなり教員の機嫌次第で、理由もなく威圧的な説教が始まって誰かが連れ出されるとかもあったし、とんでもない中学校だった。まさしく刑務所の方がまだましじゃないかとも思ったくらいだ。

立場が人を作るというのは本当の話だろう。管理される立場にいる生徒だからか、管理されていない環境においては、酒、タバコ、喧嘩とやりたい放題な生徒もいた。管理を強めれば素行がよくなるなんてのは全くの認識の誤りで、全く現実が見えていないのだと強く思ったものだ。その管理者の筆頭担当者だった主任は今や校長をやっているのだから世も末であり、私立というだけで学校に入れるのは大きな誤りがあるのである。現実を見て判断しないといけない。

話を戻すと、要するに、「一人の大人として扱われてかつある領域のプロフェッショナルから原理・原則のレクチャーを受けられてアウトプットを出す練習を行い、個別のフォローが受けられるメンターが存在する」という場所がよいのだと思う。

アウトプットの具体的は方法は色々あって、英会話を練習できるとか、語学研修があるとか、プログラミング教育を行っていますとか、数理教育に力を入れていますとか色々言えるが、結局内容が伴っていないと小手先のテクニックで終わってしまう。

 

4. 教育を受けることの最終的なアウトカム

「人生はうっとり集めの旅」という言葉がある。自分の好きな言葉で、及川光博がある番組で言っていた事だ。

なんでもない瞬間なんだけど、達成感だったり、分からなかったことや真理がちょっとだけ理解できる瞬間だったり、綺麗な景色をみる瞬間だったり、人生には「この瞬間いいな!」「なんかいい感じ!」という瞬間が色々ある。

与えられたものを消費して、生きるためだけに生活していたらこの瞬間を味わう機会は減ってしまうものだ。教育を受けて自立した思考を行うということの先には、人生の中で感じる「うっとり」や「なんかいい感じ!」をたくさん集めることになる。

お金はお墓に持っていけないけれども、たくさん集めた「うっとり」「なんかいい感じ!」が人生の面白さの集積であって、そういうものを子供にもたくさん持って欲しいから教育をきちんとしていきたいと思うのである。